裁判員制度と量刑について考えてみる

もしあなたが突然、裁判員に任命されて、凶悪殺人事件の被告に対して「有罪」ないし「死刑」判決を与えざるを得なくなったらどうしますか?
 これは来年の5月から、すべての国民にとって現実の話になってくるものです。
 ではもうひとつ、質問します。もしその被告人が、某有力広域暴力団のトップだったらどうでしょうか?
 まず、先入観でもって「きっとやったに違いない」と思わないと言えますか?
第二に、死刑判決を下したあとで、被告の手下の組員がやって来て「やってくれましたね、いずれお礼いたします。お嬢さんが中学校でしたね」と、言うかもしれない。それでもあなたは、正義のためにと死刑判決に挙手をする決断ができますか? 裁判官はそれをしなければいけないという宿命があることを知りながら、その職業を選択しています。でも、平凡な家庭生活を営む家庭の主婦がそれをできるでしょうか。
 三番目に、きわめて客観的に事件の背景を読みとり、感情を排除して判断を下すことができるかどうかです。マスメディアの論調に左右されるということはないのか。
 実は半年ほど前から、亀井静香国民新党代表代行に誘われて、彼が代表を務める「死刑廃止を推進する議員連盟」に顔を出しています。そのお誘いに乗ったのは、ひとつは世界の流れが死刑廃止のほうにグングンと移っているからです。今や主要国で死刑を執行しているのは、アメリカ、中国など、少数の国に限られてきています。日本はその数少ない国のひとつです。
 私がもっとも懸念しているのは、裁判において検事側が「有罪だ」と起訴したら、99.9%はその通り有罪になってしまうという日本がそのような国であることです。そこには、えん罪で処罰されるケースもないとは言い切れません。日本は他の国に比べて、余りにも有罪率が高過ぎるのです。検察に目を付けられれれば、ほぼ有罪。マスコミもそれを前提に報道をするし、その論調に裁判官も少なからず影響を受けるはずです。
 そのような国、国民性において、突然、市井の人が刑の判断を下す。それも「死刑」のある裁判です。本当にそれでいいのでしょうか?
 そうは言っても世論はまだまだ「死刑廃止」に対して心理的距離があります。そんなとき、私が学生時代に刑法を教わった団藤重光氏(東大名誉教授・元最高裁判事)が、90歳のご老体に鞭打って「裁判員制度を導入する限り、死刑は廃止にしなければいけない」というメッセージ・キャンペーンを始められました。
 裁判員が死刑判決を出すには、全会一致でなければダメということにするべきではないか。また、日本では、事実上「無期懲役」では19~20年で釈放になることが多いので、死刑と無期懲役の間にもうひとつ「終身刑」というものを入れるべきではないか。このような議論を深める必要性を感じています。そして、少しずつ党内の人たちと話しあい、賛同者を探し始めてみたところ、実に多くの人が「かねがねそう思っていた」と共鳴してくれました。
 それならば、この連休明けに向けて、大きな超党派の動きにして、国会で議員立法で実現させてみたいと考えています。連休明け、ますます忙しくなりそうです。