新憲法を生み出す歴史の力学
古今東西、いかなる国でも新しい憲法が制定されるのは、歴史の流れからみる不連続と思われる変化が起きたときに限られる。フランス革命で王政が倒されたとき、米国の13州が本国から独立を獲得したとき、徳川幕府から維新政府に移行したとき、第二次大戦で敗北をした日本などだ。
それに比べれば、2005年の日本は平時だ。本格的憲法改正が論じられても、政治プロセスとしてなかなか現実にならないのは、歴史の流れの力学が十分働かないからだ。
9条改正−私はこう考える
しかし、自分たちの憲法が占領下に、米国の強い影響下に起草・制定されたという「いやな経過」をかかえて今日まで60年、マグマが溜まっていることも事実だと思う。
私は戦後教育を受けた60年安保世代。護憲の流れで若い時代を過ごしたが、改憲問題については出来る限り先入観を持たないようにして考えてきたつもりだし、今後もそうありたい。
改正議論で特に難しいのは、むろん9条。私は次のように考える。
改正議論で特に難しいのは、むろん9条。私は次のように考える。
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自衛のための戦力保持、交戦権は、明文化されるべきである。「自衛隊」と呼ぶか「自衛軍」と称するかは印象だけだ。 |
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いわゆる集団的自衛権論争は、わが国の部隊が海外で日本以外のための武力行使に参加するか否かということだが、抽象論議を離れて日本をとりまく状況から、具体的に考えてみたい。 |
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[ 1 ] 二国関係でみれば、ここ当面は日米安保しか現実性はない。日露(日本国民が断わる)、日中(先方が断わる)、日韓(先方の国民がその方向でない)、日朝(日本が断わる。先方は分からない)――それぞれ想像できないのだ。日台は中国関係の悪化が100年続くと覚悟すべきだ。だから二国間の集団的自衛権問題は、ここ当面日米しか有り得ない。 |
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[ 2 ] 問題は、米国が万一、日米安保存続の暗黙の条件として、双務性を要求してきた場合だ。米国本土防衛については、米国の能力面からも、誇りの面からも、対日要請してくる可能性は少ない。あるとすれば、イラク戦争のように、米国主導の多国籍軍への参加か、台湾海峡有事である。いずれのケースも、国連決議が明確にない限り、武力行使には参加すべきではない(仮に認める場合は、厳密な事前協議を要求しなければならないが、米国は他国と踏み込んで協議はしないと思われる)。 |
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[ 3 ] 従って国連軍ないし、安保理決議による行動の場合だけが問題となるが、私は国際社会における責任分担として、集団的自衛権の行使を憲法上認める方向で考えるべきだと思う。また、近い将来、アジア集団安全保障体制が樹立され、警察軍の参加が条件づけられたら参加すべきであろう。当然のことだ。 |