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ナゾの大反転を語る
文藝春秋「諸君!」
6月号からの転載

なぜ単騎議場に乗り込み名誉の戦死を遂げなかったのか
地に落ちた自民党のプリンスは自民党の埋葬人となるか

「加藤政局」とはなんだったのか。昨年11月9日、突然の「倒閣宣言」にはじまり、国民をメディアに釘付けにした11日間の熱いダンスは、国民の期待とは裏腹に最後は腰砕けに終わってしまった。あの晩秋の出来事を、私たちはいまだに忘れることができずにいる。憤りを通り越して放心、脱力、政治に対する期待の皮一枚を奪い取られた。 「長い長いドラマのはじまりです」と言いつづけた、そのドラマの主人公だったはずの自民党の加藤紘一元幹事長は、いよいよクライマックスに差しかかったとき、唐突にみずから一人、舞台を降り、長い長い沈黙の季節にもぐり込んだ。派閥は分裂、保守本流の嫡子は勘当され、「あんなことさえしなければ自動的に政権が転がり込んできたものを」と、いまでも囁かれている。ようやくいまになって彼は、11日間の熱くて冷たいダンスについて語ってくれるという。これは二時間ずつ二度にわたっておこなわれたインタビューの報告である。


── まず、いわゆる「加藤の乱」で、いったい何を訴えたかったのでしょうか。途中で党内の戦術論ばかりに注目が移ってしまった気がしますが。

── 加藤さん、僕は今日のインタビューのために、去年の政局のドキュメントをつくってみたんですが、資料をまとめているうちにだんだんフラストレーションが溜まってきて、朝まで眠れなかった。どうしてあのタイミングで倒閣運動を起こしたのか、戦略はあったのか、なぜ最後の最後で腰砕けになってしまったのか、と。

11月20日から21日未明にかけての内閣不信任決議案をめぐる採決を中継したテレビの視聴率は20パーセントくらいあったといいますが、ほとんどの国民はあなたの行動を支持していたと思います。ですから今日はあの11日間について、しっかりお話ししていただきたい。

【加藤】 はい。

── ではまず、なぜ倒閣運動を起こそうと思われたのか。

【加藤】 当初、私が考えたのは、あくまでも自民党の中で森内閣の退陣を求めていくというものでした。国債の格付けが落ち、株価が低迷する中で、この国をこれ以上、劣化させてはいけないという危機感を募らせ、森総理自ら辞任を決断してもらいたいという願いをもって、あの行動を起こしました。

 私はあのとき政権を取ろうということが前面にあったわけじゃないんです。このまま森さんを代えないでいくと、今年七月の参議院選挙で自民党は目茶苦茶に負ける。それをきっかけに解散総選挙に追い込まれて自民党は野党になる。で、この段階で手を打っておかなければ、わが党は危ないと思ったんです。

── その思いだけなんですか。

【加藤】 それだけです。それくらいシンプルな動機だったし、党内でも国会議員のほぼ80パーセントが森さんじゃだめだと言っていたわけだから、ここで反主流派の私が声を上げようと、そういうところからスタートしたんです。私が行動を起こせば、そのあと長いドラマがつづいていくんじゃないか、私がやるのは一幕か二幕だけれども、いろいろな動きが出てくるかもしれない、と。

── しかし、なぜあのタイミングで倒閣運動を起こしたんですか。小渕(恵三)首相が病に倒れたとき、野中(広務)さんをはじめとするいわゆる「五人組」が密室で森(喜朗)さんを新首相に決めていきましたね。なぜあのときではなく、師匠である宮澤(喜一)さんが取り組もうとしている補正予算の時期に仕掛けなければならなかったんですか。

【加藤】 小渕さんが倒れられたのが4月の2日、森さんが選任されたのが4月5日。わずか3日間で決まってしまった。

 あのときはやむを得ないと自分では思っていたんです。重篤の人の枕元で跡目の相続をめぐって兄弟喧嘩するというのは、私のような東北の人間の感性からいって避けるべきだなあというのがありました。「そういう情緒の世界の話ではないでしょう」と当時何人かに言われましたが、まあ森さんが小渕さんの残任期問の総理をやるというのならやむを得ないんじゃないかと。

 ただ、私はあのとき「手続きだけはしっかりしておいたほうがいい。選挙管理委員会をひらいて選挙の公示だけはやっておいたほうがいい」と執行部サイドに伝わるように言っておいたんだけど、それはなされてないでしょう。立候補者募集をやっておけば、森さんしかおりませんでしたということで正当性がついたんですよね。そこが、大きなミスだと思います。執行部はなぜか急ぎましたね。

 僕が立候補するのかなというふうに思ったのかもしれません。ただ、僕は争うつもりはあまりなかった。

■宮澤氏の「決起すべし」

── では、なぜ11月に?

【加藤】 内閣改造が近いと思ったからです。補正予算案については野党もあまり反対できないし、すんなり国会で通ると思っていましたのであまり関係はないんです。

 内閣改造、つまり組閣ということになるとみんなすべてを忘れてポストの争奪戦になる。当時から僕は自民党に対する世論の反発には強烈なものがあると感じていたから、ここでなおかつポスト争奪戦に狂奔するようになると自民党は完全に見捨てられる。参議院選挙では目茶苦茶に負け、解散総選挙に追い込まれてそこでも負ける。山崎拓さんが僕に言った言葉では「そのときにはもう自民党はどこの政党からも相手にされない政党になってしまう」と。僕もそう思ったんです。

 あのタイミングについて「早かった」と言う人がいます。たぶんそうだったんだろうと思うけれども、しかし、あそこから先はもう自民党に対する逆風は止まることなく激しく吹きつづけるだろうと思いましたね。現にいまそうなっている。その逆風は僕が思っている以上に強かったんじゃないでしょうか。

── 加藤さんが予見していたように、森総理を密室でつくったあと6月におこなわれた総選挙で自民党は負けます。
その直後の29日夜、宮澤さんに「決起」を促されたというのは本当ですか。

【加藤】 まず6月25日の総選挙の直後、いろんなメディアや二、三の同志が僕に決起を促すんです。「野党と組んで政権を取るべし。そのために立ち上がれ」と。

 私は「その機運は党内にはまだない」と。とくに宏池会の中ではそんな議論はしていないし、それに党内は森続投でいいという雰囲気が95パーセントでしたから、彼等には「ちょっと無理です」と答えた。彼等は非常に不満そうでした。一応そうした空気がおさまったと思った29日の夜10時ごろでした。宮澤さんに、六本木のある会食の場に呼び出されたのは。

 ほかに民間の人も5、6人いましたけど、そこで宮澤さんに「決起すべし」と言われました。

── なにをもって宮澤さんはそうおっしゃったんでしょう。

【加藤】 それはちょっと……。まあ「決起して政権を取るベし」「こんな森内閣じゃだめです」と。

── 野党と組んで?

【加藤】 はい。で、私は「私ひとりでは宏池会をまとめきれません。でも、あなたがおっしゃるならば正当性がつきます。会長、本当にそうお考えなんですか」と言ったら、「二、三の人と相談してみるから考えてみてくれ」と言われましてね。

 そうしたら、翌日の午後4時ごろ宮澤さんが、「やっぱりだめだな」と。理由はきわめて説得的なんですけども、「5日まえまでお互い選挙区で殺す殺さないという戦いをしてきた自民、民主の人間です。当選してきた自民党の議員とてまだ血刀を下げて興奮している状態です。そこで野党と組もうというのは無理でしょう」とおっしゃった。私も「そう思ってました」と。もともと僕は無理だと思ってましたから。「決起」の動きはそれで終わるんです。それが11月の伏線にもちょっとなるんですが……。

── つまり、「加藤の乱」のときも、自分が決起すれば宮澤さんは当然協力してくれるという信頼があったわけですね。

【加藤】 そうです。11月の政局は、自分が政権を取るということではなく、森政権に終止符を打つということが目的でしたから、その程度のことなら宮澤さんに賛成していただけると思ってたんですね。

── しかし、裏切られる。宮澤さんは11月の政局のときに、宏池会のベテラン・中堅議員たちに担ぎ上げられて「反加藤グループ」の象徴のような存在になりますね。加藤さんはご自分の行動を理解してもらうために、12日、原宿にある宮澤さんの私邸に行かれました。そのとき、なんと言われたんですか。

【加藤】 かなりネガティブでしたね。その3日まえに「山里会」(読売新聞社長の渡邉恒雄、政治評論家の中村慶一郎、早坂茂三らでつくる勉強会)で僕が発言したこと(いわゆる「倒閣宣言」)がメディアを騒がせるようになって、宮澤さんも新聞等にコメントしていましたが、それを読むとかなりきついコメントでしたから、あれっ、と思ったんですけど、実際にお会いしてみるとかなりきつい感じでしたね。

── なぜ、こんなに変わったんでしょう。

【加藤】 それはわかりません。

── 僕は加藤さん周辺の方からこんな話を聞いています。「大蔵大臣の留任、つまり、初代財務大臣に意欲的であったのでは」と。いかがですか。

【加藤】 大先輩のこころの中を忖度することはできません。

■ 除名、離党は覚悟していた

── 宮澤さんの豹変ぶりを見て、どうしようと思いましたか。これでは派内全体をまとめるのはなかなか難しいんじゃないかと?

【加藤】 かなりきついなあと思いましたね。野党の不信任案に対してはじめは「欠席」でいいだろうと思っていたんです。しかし「賛成」票も選択肢の中に入れないと足りないかなと思いました。ですから僕はそのときから「賛成する可能性もある」というようなことをメディアを通じて言いはじめるわけです。

── 17日には「不信任案に賛成します」と明確に宣言しました。そして「100パーセント勝ちます」と言いつづける。根拠は?

【加藤】 単に欠席、棄権じゃなくて、賛成にまわってくれる同志がいれば、これはかなりきつい作業だけれども数の上では届くという思いがあったからです。

── 宮澤さんが18人のベテラン・中堅議員を直接口説きはじめます。それで翻意する議員が続出しはじめて、僕が驚いたのは加藤さんの政権構想をまとめていた丹羽雄哉がそこに入っていたこと。どう思われました?

【加藤】 おっ、と思いましたねえ。ただ、不信任案に賛成、同調するという選択はなかなかきつい作業なんですよ。それぞれの議員が選挙区できついことを言われます。執行部からは除名勧告をちらつかされる。選挙区的には死を意味するというふうにみんな思ったんだと思います。丹羽さんもそれを恐れたんでしょう。

 僕は三十数人が賛成したところで、執行部は全員を除名になんかできるわけがないと思っていました。自民党の数ががっくり減るわけですから。ただし、僕と山崎さんは代表して除名されるだろうと思ってました。だから「われわれふたりが除名、離党ということで行くんだから、そこは安心してついてきてくれ」とみんなを説得していたんです。

── ああ、覚悟なさってたんですね。

【加藤】 それは覚悟していました。

── そもそも「加藤の乱」にいたる流れの源流は、1999年9月の総裁選に加藤さんが立候補し、公明党との連立を批判しつづけたところにあると僕は考えています。もっと言うなら、加藤さんが三期目の幹事長時代に野党議員を一本釣りして自民党に単独過半数をもたらしたことにあるんじゃないかと。
つまり自社さ連立時代にボトムアップで政策論議を積み上げていったのに、単独過半数になったとたん数の上での傲慢さが出て、法案にしても社さを顧みず政府原案どおりにぽんと通してしまうようになった。堕落と腐敗がはじまったわけです。創価学会という特定の宗教団体を母体とする政党とくっついたのも、ただ数の上で政権を維持したいというだらけた感覚にすぎない。

【加藤】 あれは平成10年の秋でした。自自公連立をやろうという相談を野中さん、古賀(誠)さんのふたりから僕は受けているんです。その話し合いをする場所に私は招かれた。そこにいたのは野中、古賀両氏のほかに自由党の藤井裕久、二階俊博(現・保守党)、野田毅(同上)。

 自由党との連立を言われて、僕は「とてもそんな話には乗れない」と途中で退席したんです。その後、小渕総理と自由党の小沢(一郎)党首が会談します。そして、自自連立をやるというので、その翌日小渕さんから電話がありました。僕は「なにをやってるんですか。これで自民党は選挙に負けますよ」と言ったんです。「国会はうまく法案を通せるでしょう。でも、選挙は負ける」と断言しました。そして、そのとおり負けましたね。

党内の運営も国会の運営も数で勝負という頭が抜けないわけですね。ところが数でごり押しするほど明確なイデオロギーも、立派な政策も、それから与野党間の政策の相違点もないんですよ。そういうときにごり押ししちゃいけません。やはりひとつひとつのテーマに汗を流して討論したり失敗したり、喜怒哀楽がなければいけない。「私」を離れて必死の形相でやっているところに支持が集まるわけですよ。

しかし、その努力に疲れてくると安易な途に乗りたくなる。政府原案どおりに法案を通していくのがいちばん簡単だと。それで数が欲しくなった。とくに参議院の数が。そこで自自公路線に入っていくわけです。

私は幹事長時代にふたつの大きなミスをしたと思っています。ひとつはいま指摘のあった無理やりに251議席にまで持っていったこと。「一本釣り」と批判されたあの努力は、党のためにも日本の政治のためにも間違いだったと思います。

それからもうひとつは、中曾根(康弘)さんのことです。選挙を経ずして永世一位という調整は間違っていたと思います。

ただ、いずれ幹事長を自分は辞める。そのときには251、過半数をちゃんと揃えてつぎにバトンタッチしたいと思ったんですね。ところが251になった瞬間から、自民党の総務会は古いタイプの議員の発言が強くなり、5分とか10分で簡単に終わるようになった。土井(たか子)さんの言うことをなぜ聞くんだ、さきがけなんてたった数人の小所帯じゃないか、と。ですから自自公路線に反対したのは、自分の失敗体験からのアドバイスだったんです。

── 原罪意識なんだ。

■ 経世会路線には乗れない

── 民主党の菅直人や自由党の小沢一郎とは話し合っていたんですか。

【加藤】 してないですね。

── 山崎さんとは?

【加藤】 もう毎日のようにしていました。

── 小泉さんとは?

【加藤】 していません。

── 古賀さんとはどうなんですか。

【加藤】 むろん時々会っていました。

── 伝わっているところでは、10月30日頃、青木さんとも会われましたね。橋本派との関係修復を求めて。その時、青木さんは「いずれあなたの時代になるんだから、野中さんと仲直りしなさい。あなたの窓口は野中さんなんですよ」と言ったとされている。

【加藤】 その余談はなかったことになっています。

── 不信任案を成立させようと考えているときに、なぜ森政権を支えている橋本派の実質的なオーナーである青木さんに会われたんですか。

【加藤】 党が心配だったからですよ。このまま放っておいていいのかな。党が潰れてしまう。そういう危機意識で山崎さんと話し合っているうち、青木さんと会って現状を打開すべきじゃないかと率直に話してみようということになったわけです。

── 森さんを降ろせという話をなさったんですか。

【加藤】 「森内閣のままで大丈夫ですか」「来年の参議院選挙を戦えますか」と。

 まあ、青木さんは野中さんとの関係を修復するようにということを言ってましたから。で、現状を打開するためには野中氏とも話し合おうと私は思って、翌日古賀氏にその段取りを頼んだんです。

── 一部の報道では、加藤紘一がポスト森を狙うために野中さんとの関係修復を古賀さんに頼んだという書き方がされているんですが、そういう感じじゃなかったわけですか。

【加藤】 ……どちらかと言えば、それまで私自身は野中氏と会うことにあまり積極的じゃなかったんですよ。いろんな人が野中氏と会えと言ってましたけどね。

── なんで仲が悪くなっちゃったんですか。以前はすごく良かったでしょう。

【加藤】 やはり路線の違いです。経世会(橋本派の前身)の路線に乗ってほしいというのが野中、古賀両氏の基本ですから。

── ちょっと古くなるんだけども、去年の総選挙の前後、野中さんから「森さんのつぎは加藤さん、あなただから」「ただ、そのときの幹事長は橋本派から起用するように」という話があり、しかし、加藤さんは「幹事長は山崎拓だ」と言って突っぱねた、と聞いていますが。

【加藤】 いや、野中氏じゃなくて、古賀誠氏から話がありました。どうしても幹事長は山崎拓でなければだめですか」と言うから、「やはり自分が政権を取るときには彼の協力が中核になる。私としては山崎拓氏に幹事長をやってもらいたいと思っている」ということを言いました。総選挙の前だったかな。

── 古賀さんから加藤さんの考えを伝え聞いた野中さんは、加藤紘一は自分たちとは完全に違う、全然別 のことを考えていると取ったでしょうね。

【加藤】 そうでしょう。小渕さんが総裁選に立候補したとき、僕と山崎拓さんが立候補した段階から、そしてまた将来の政権構図としても、これは経世会の意向どおりの政権を考えていないな、と思ったでしょう。私は経世会というのは有能な人材がいて、そこの協力がなければ自民党の中では政権はできないとは思っているけれども、日米関係みたいなもので、アメリカは日本にとって重要だけれども、やっぱり独自の考えをしっかり持つ日本外交でなければ国民はついてこないというのと同じに、やはり一定の距離感というものを持たなきゃならんと思ってました。いまでもそう思ってます

── もともと反経世会というのは、山崎さんや小泉純一郎さんとYKKをつくったときからあったわけでしょう。権力の二重構造を打破しなきゃいけないと。

【加藤】 もし現状のままでいいというなら、僕は小渕さんに対抗して立候補などしなかったでしょうね。

── しかし、自民党を救うためには野中さんとここで握手しようじゃないかと思ったわけですね。

【加藤】 そう。状況がもっと悪くなっていましたからね。いまでこそみんな大変だというけども、僕は幹事長として党の運営を長くやってきたから、あ、これはまずい状況になってるなと思ってました。

── 結局、野中さんには会ったんですか。

【加藤】 会ってません。

── 古賀さんが会合をセットすることもなかった?

【加藤】 「山里会」のおこなわれる一、二時間くらいまえに古賀さんに来てもらってどうだと訊いたら、「経世会は野中氏も青木氏もお互いにらみ合った感じで、なかなか動きがとれない状況です」という報告でした。

── その11月九日の夜、いまお話に出た「山里会」がホテルオークラの「山里」という料理屋でひらかれたわけです。ここに招かれた加藤さんは「倒閣」を宣言する。
「森さんで組閣ができるんですかね」という話からはじまって「組閣は私がやるんです」とまで言ったと伝えられています。

【加藤】 そこまでは言ってなかったと思いますね。

── そうすると、この段階では不信任案に対する態度はまだ固まっていなかったということですか。

【加藤】 いや、「内閣不信任案に簡単に反対とは言えません」ということは言いました。もう決意はしてました。

── 「山里会」でこういうことを言えばすぐに外に漏れるということはわかっていたわけでしょう? 漏れることを期待さえしていたと言ってもいい……。

【加藤】 期待したわけではないけど(笑)。

 私は基本的には自民党内における総裁交代劇のきっかけをつくりさえすればいいという意識でした。自分が政権取りをしようなんて思っていなかったわけですからね。「山里会」の翌日午後2時ごろかな、私の後援会に出席するために、福岡行きの飛行機に乗って佐賀へ行くんです。5時前後に福岡空港に着いた時点から、飛行機に乗っていた2時間弱のあいだに自分の身のまわりが急変したことがわかりました。空港に降りて、取材陣がどっと集まって、佐賀でのパーティーが終わったあと博多のホテルへ行ったときには収拾がつかないぐらいになっていた。このうねりはなんだと思いました。

■ 国民のマグマを見間違えた

── それからあの11日間の政局がはじまるわけですけど、当初の考え方と最終的な場面での考え方のあいだにはずいぶん開きがあったんですか。たとえば「離党はしません」と言いつづけた。見ているこちら側からすると、非常にわかりにくかった。
これは倒閣に違いない。だけど、もうひとつ言えば、永田町以外のたくさんの人たちが期待したのは、加藤さんが自民党を飛び出して新党をつくり、野党と連合して自民党を政権の座から引きずり下ろした戦犯だと言われようと、自分は構造改革を断行し、この国を再生させるんだという一貫した行動だったと思います。

【加藤】 そこまでの図式を考えていたわけではなくて、自民党内における総裁交代というドラマをまず第一幕として自分がやろうと思ってたんです。これは最後までそう。

 だからこそ不信任案にたいする投票の前日、11月19日の「サンデープロジェクト」に出て、前日より後援会ツアーで北海道にいた野中氏とスタジオでテレビ対話することになりました。そこで総理に辞めてもらっていいという主旨の野中氏の発言を聞いた。たぶんあれは本音だったと思うし、また、幹事長が言うのだから、当然、森首相とはある程度話し合った上での発言に違いないと理解した。そこで、私は「それならばわれわれも事をおさめましょう」と言ったんです。

 それに対して大変たくさんのファックス、電話、Eメールが届くんですけども、そのときに、自分の考えたことと国民の期待はかなりかけ離れたなあという思いをしたんです。これは「加藤政局」が終わるまでずっと続いた。

 私はあの政局の中でいくつかのミスを犯しましたけれども、いちばん大きなミスは国民のあいだに溜まっていたマグマの大きさと性格を見間違えたことだと思うんです。自分では執行部よりも国民の自民党に対する不満というものについてわかっているつもりだったけど、それは僭越でした。

── だって夥しいメールが毎日、事務所にも届くわけでしょう。見てないんですか。

【加藤】 あの政局のあいだ私の睡眠時間は平均4、5時間だから、メールは全部は読めないんですよ。何千通も届いてますから。何本か典型的なものが私にまわってくる、それを読むわけです。で、大変な期待が集まってることもわかってるんですけども、まあ、メールというものと世論というものとどういう相関関係にあるのかわからないし、「加藤政局」はメールによってスタートし、それによって間違えておこなわれたバーチャル政局だとよく言われてますが、それは違うんですね。いまでも政局のまえに届いたメール、過去のメールは全部ホームページに掲載してありますが、「立ち上がれ」なんていう勇ましいメールはないんですよ。

 僕のホームページって政策論議しているような地味なサイトなんですよ。立ち上がれ、決起せよ、なんていうのは本当になかったですね。だけども私は国民世論の大きさと性格を間違えたと思いますね。今日まで私は針の筵(むしろ)にいるわけですけれども、それは判断を間違えたことから来る厳しさです。

── 国民はどんなことを期待していたといまでは思いますか。

【加藤】 かなりの程度で自民党を潰してくださいということでしょう。11月20日の投票、本会議のときに、多くの飲み屋さんから客が少なくなったという話をあとになって聞きました。都心のタクシーにも空車が目立ったと。日頃遅く帰る人たちが早くに家へ帰ってテレビを見ているという状況になっていることは知りませんでした。

── あの政局でがっかりさせられたのは、ようするに経世会支配というものの中にからめとられてしまったというか、自らその中に埋没してしまったというか……。

【加藤】 いいや、僕らは埋没はしてませんよ、意識としては。負けましたけれども、埋没したとは思ってません。

── テレビに釘付けになっていた人たちは、みんなそう受け止めたと思う。本当にがっくりした。

【加藤】 まあ、それは私たちの中に自民党派閥政治的体質がしみ込んでいるんでしょうね。仲間を守らなきゃならんとか、仲間と一緒の行動をしなきゃならんとか、そういう意識はありました。だから、ひとつは自分自身がかなり永田町を批判しながら永田町的であるし、変えなきゃならんという覚悟が未熟であったという個人の問題があります。

── 「サンデープロジェクト」は僕も見ました。

あのとき野中さんが「総裁選の前倒し論」をおっしゃいました。加藤さんは「そういうことなら行動をおさめてもいい」とおっしゃった。なぜ、あんなに簡単に信用されたんですか。あのとき加藤さんは、森さんと野中さんのあいだで総裁選を前倒ししておこなう、つまり早期退陣で話がついていると思って、それなら矛をおさめようと発言なさった。

【加藤】 いや、それはそうではないんですね。総理になった時のいきさつからして、野中氏をはじめ党執行部の発言は大変な重みを持っておりました。いわゆる権力の二重構造の力学からしても、また幹事長経験者としての私の感覚からしても、基本的な面で総裁人事について幹事長が総理とすり合わせもせず、言及するということは考えられませんでした。 そうした理解の上で、私はあの発言を聞いて、終わったと思ったんです。

── ああ、やっぱり。

【加藤】 いや、いや、終わったと思ったのは、野中氏が森さんを辞めさせると言ったんだから、これでとりあえずの目的は達したと思ったんです。

 やり遂げたと思ったんです。だから僕は「サンデープロジェクト」のあとにテレビ東京に30分くらい出るんですけど、そのときはほとんど脱力感に襲われていたんですよ。これでなし遂げたと。

■ 本会議場に突っ込もう……

── ところが、それから状況がまたにわかに急変する。亀井静香が巻き返しに出るんですね。北海道から羽田に帰って来る野中さんを待ち構えて「総裁選の前倒しは許さない」と詰め寄るわけです。そして総裁選の前倒し論は引き延ばされ、「サンデープロジェクト」の翌日、不信任案採決の本会議がひらかれるわけです。そして、それまでのあいだに加藤派の切り崩しがすさまじい勢いでおこなわれる。「サンデープロジェクト」のあった夜には反加藤グループの集会がひらかれました。13人が参加し、そこに宮澤さんも出席した。採択当日までには24人に膨れ上がっていた。櫛の歯を挽くようにどんどん目減りしていくわけです。

【加藤】 党執行部の切り崩しがかなり激しいもんだなあと思うのと同時に、小選挙区制度だとやはり党の執行部の権力をみんな強く感じるんだなあと思いました。ただ、権力を行使するとそれなりに効果はあるんだけれども、しかし使ったあとつぎの選挙のときに国民の判断が下るぞというふうに思ってました。

── 票読みはいかがでした。

【加藤】 欠席する人に賛成にまわってもらえばどうにか間に合うんじゃないかと思ってました。それに相手側も20日の夜7時、8時ごろまでギリギリ自分たちの票が読めてなかったんですよね。

── 野中さんは最低でも四票差で勝てるというふうに19日の晩には思っていたという話があります。加藤さんは山崎さんとともに賛成票を投じるという決意は変わってなかったんですか。

【加藤】 賛成票を投じて除名ないし離党というのは覚悟していました。

── 11月20日、決戦の日です。加藤さんは山崎さん、亀井善之さんたちと全日空ホテルの一室に籠もる。小里貞利総務会長が野中幹事長との連絡役になっておられた。同志たちは切り崩しにあって「賛成」ではなく「欠席」、あるいは離反していく。
小里さんは「野中幹事長から、欠席なら除名にしないという約束を取り付けてまいりました」と報告なさいましたか。

【加藤】 いや、それは「欠席」を決断するときにはなかったと思いますね。

── 「怪我人なし」という約束を野中さんから取り付けてきたという話を小里さんからされませんでした?

【加藤】 それも決断する前にはなかったと思いますね。

 あまりはっきりとした印象をもっていないのは、もともと、自分は除名ないし離党になることを覚悟していたからだと思います。つまり、私は幹事長経験者だから、政治のダイナミズムからいって何十人もの除名処分はあり得ないと思っていたんです。私と山崎さんふたりが除名されると覚悟していたわけです。最後まで山崎さんとふたりで賛成票を投じに本会議場へ突っ込んでいこうと言い合っていたんです。

 ただ、そのときにうちのグループの中でかなり不協和音が出ていたのは知ってましたし、その日の朝から賛成票を投じようと覚悟していた同志たちも、切り崩しにあってかなり限界に近づいているということも、まとめ役の川崎二郎さんや谷垣禎一さんから聞いて知っていました。

 しかし、それでも私と山崎さんのふたりだけでも賛成票を投じに行こうと立ち上がりかけたときに、小里さんからこう言われたんですね。「無所属になった会長では宏池会は守りきれません」と。その言葉がかなり判断に影響したと思います。それで今回は引こうと。もう一回立て直して碩張ろうということになったわけです。

── 欠席でいこうと。

【加藤】 はい。

── 記者会見をしに、同志のみなさんが待つホテルオークラに向かったのはそれからですね。

【加藤】 本会議開始と同時に僕はホテルオークラへ行きました。みんなより少し遅れてね。それまで全日空ホテルに籠もっていたので、外の状況はまったくわからなかった。飲み屋さんが閑散としてるなんていうことは。

 ところがホテルに着いて会場に近づいたときに、これはいかん、と思ったんです。たくさんのテレビクルーや新聞記者がそこで僕を待っていました。その中でひとり、ハンディカメラを持った民放の女性記者が──この人は僕をずっと11日間ウォッチしてた記者なんですけど ──もう記者の立場を忘れて僕に向かって「国民の期待を裏切ってどうするんですか!」と叫んだ。それが多くのカメラにも音声として入って、その声も画面 に流れたらしいんですけど、そのとき僕は「あっ」と思って、これ、ちょっと大変なことになってると……。

 ちょうどそこへ娘や息子たちからも電話がかかってきたんです。「世間では大変なことになってるんですよ。重大性を考えて判断してよ」と。

 会場に入って椅子に座って山崎さんを待ちました。山崎さんは5分ほど遅れてきた。記者会見がたったいまはじまろうとしているときに、僕は隣の山崎さんに「拓さん、これはちょっとまずい。やっぱり国民の信頼をつなぎ止めるために、ふたりだけでも本会議場へ行こう」と囁きかけた。山崎さんも「そうだな、行こう」と応じたわけです。私は挨拶に立った。そして「これから山崎さんとふたりで本会議場へ行ってきます」と言って、みんなに引き止められた。

── それがあの涙のシーンですね。行けばよかったじゃないですか。どんなに止められたって。
僕はずっとテレビを見ていました。臨時ニュースのテロップで、「欠席を決めた」と流れたときは、心底がっかりしました。ところが、奇蹟が起こった。保守党の松浪健四郎議員が不信任案反対の演説をおこなってる最中に、ヤジに怒って水を野党議員にぶっかけるという事件を起こしてくれて、採決までの時間を引き延ばしてくれた。これはなにかが起こると期待したのは僕だけではなかったはずです。民主党の菅直人幹事長から加藤さんの携帯に電話がかかってきましたね。

【加藤】 私の携帯にはありとあらゆる人から電話がかかってきていて、繋がりにくくなっていたんです。そこで菅さんは園田博之氏の携帯に電話をくれて、僕が出たわけです。松浪氏がこういう事件を起こしていま国会は中断している、あなたひとりでも出てきてくれないか、と菅さんは言うわけです。

── なんと答えたんですか。

【加藤】 「よくわかるけれども、われわれとしてはみんなでここは欠席を決めたので、みんなと決めた方針を変えないでいきたい」ということです。隊列が乱れたのならば、もう一回立て直そうと。またもう一回勝負があると。こう思ったわけですね。

■ 大反転の理由は……

── テレビでは何度も本会議場の加藤さんと山崎さんの空席を映していました。あの空席は国民感情の空洞を表現していました。国会は真夜中になる。午前2時過ぎ、民間のご友人がホテルオークラに訪ねてきます。だれにも引き止められないように、調理場に呼び出されましたね。

【加藤】 そうそう。

── 「ひとりでも本会議場に行って白票を投じるべきだ」と加藤さんはその方に言われたそうですが。

【加藤】 いや、賛成票ですよ。「単騎でも」と言われました。ひとりの兵士として。そう言われてだいぶ考えました。

── その友人の車に乗って国会まで行こうとされますよね。国会まえの坂のところで一旦車を止めるわけですね。で、二、三電話された。どなたに電話したんですか。

【加藤】 まあ、それはいいでしょう(笑)。

── では、どんなことを考えてました?

【加藤】 紙一重だな、決断は……と。いまおれはヒーローになりつつあるけれども、それだけの力がおれにはあるんだろうか。関ヶ原の戦いだって、多くの戦いの連続が積み上がってひとつのドラマになったのかもしれん。しかし、関ヶ原のときはテレビはなかった。民主主義のいまは国民の監視の中で戦いをするんだから、そこは大きく違うかもしれない。それとも、ふたたび戦うときが来ると思うのは甘いんだろうか……。いろいろ考えました。

── いまふり返って、あのとき賛成票を投じなかったことをどう評価なさってますか。

【加藤】 ……それはわかりませんよ。私はあれだけの期待を受けたんですから、国民に借りがあると思ってます。だからその借りをいつかどんな形かで返せるように努力したいと思うんだけれとも、それがどの程度できるかで、あのときの決断が正しかったかどうかが決まるんだろうと思います。

── 僕はいまも国民は加藤さんのことを見捨ててないと思うけど、永田町は見捨てましたよ、とくに自民党はね。正統なる保守本流の嫡子であった加藤紘一という政治家は勘当されてしまったわけです。山崎さん以外には党内で加藤さんを担ごうとする議員はだれもいないでしょう。しかし、国民はそんなことはどうでもいいんです。ただ、あの政局はあまりにもご自身が考えていたこと以上に、国民のほうが先を見ていたということでしょうね。で、この雑誌が出る頃には新総裁が決まっていますが、総裁選での小泉人気というのは同じ期待だと思うんですよ。加藤さんに対して抱いた期待が、小泉さんに乗り移っている。いや、倍加してるような気がします。
橋本さんが総理・総裁になったとしたら、参議院選挙で自民党はぼろぼろに負けるでしょう。株価も暴落します。

【加藤】 いま私は全国を行脚して対話集会をひらいています。党派もなにも関係ない人たちが集まってきます。これまで50カ所、平均して一回に60人くらいの人たちとずっと2時間対話して得た感覚。みなさん真剣です。自分たちの老後は大丈夫か、自分たちが払っている年金は返ってくるのか、外国に対していつまでも謝るんだろうか、そういう身近な切迫した質問をよく受けます。私はいままでは内向き、党内や後援会向きに話していたんですね。全国行脚していて、はじめて気づきました。だからそうした経験は千葉の堂本暁子さんの当選を予想させるものだったし、今度の秋田の知事選の結果を予想させるものだったんですよね。既成政党、既成政治家がテストされる厳しいときだと思いますよ。

── ご自身についてはいかがですか。これまでは待っているとだれかが担いでくれる立場だったのが、そうはいかなくなった。

【加藤】 いずれまた自民党の中で黙っていれば復活して、というようなことは私は考えていません。それよりも自民党自体がどうなるのかということのほうが大きいかもしれない。 

全国行脚しながら自分に問いつづけてきたのは、これまでいくつかのスキャンダルで自民党は危機を迎えた。ときには野党にもなった。しかし、つねに回復力を示して与党にもどって来た。しかし、今度の危機というのは、その多くの危機の中のひとつなんだろうか。つまり回復可能な危機だろうか……かなり厳しいと思います。

── 加藤さんは反経世会でずっとやって来た。経世会の体質が自民党の体質です。ならば加藤さんや山崎さんの仕事は、自民党の埋葬人として静かに自民党を理葬してやることです。そして新しいグランドデザインをもう一回きちんと描いてもらって、この国を再生させていく、そういう政治家としてアピールしていってもらえば、国民はきっと耳を傾けます。みんなそれを訊きたいと思ってるんですよ。

【加藤】 政権維持装置、政権維持システムの中で頑張るしかないんだと思って、そうやって進んでいるうちにシステム自体が崩壊しつつあることに気がつかない。そういった悲劇が、いまの政治の随所に見られるんじゃないでしょうか。

それはなかなか簡単に克服できない。こういう私自身も、あの11月政局の中心を体験し、また、数十カ所に及ぶ全国行脚を重ねる中で、いま全国で改革を求める声が満ち溢れていることをようやく実感できたばかりです。このことは、だんだん政治家も気付き始めました。また、国民のうねりが政治家を動かし始めました。私は、11月の私の危機感の正しさと逡巡を踏まえ、今後もこの流れに乗って進んでまいります。

── 了 ──