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1996年11月 「現代」より

疑惑の渦中で10.20総選挙を仕掛けた男

加藤紘一自民党幹事長の
「ノーガード処世術」

高山文彦(ノンフィクションライター)

自ら望んだ政倫審開催

 かつて親しかったはずの者どうしが、憎しみの坩堝で傷つけあっている。そんなふたりがある日、予期せぬ場所でばったり出くわしてしまう。

 ことし7月はじめの夕刻、都心のホテルにでかけていった自民党幹事長・加藤紘一と、彼を鉄骨加工会社「共和」からの1,000万円献金疑惑で告発した医師で、東京の加藤後援会会長だった水町重範の場合がそうだった。国会での参考人招致を切りぬけたと思っていた直後、加藤は水町から名誉毀損で訴えられた。ふたりが遭遇したのは、そんな泥仕合のまっただなかのことである。

 東京・六本木の全日空ホテルの車寄せで、水町は自分の車を待っていた。そこヘアンテナをたくさんつけた黒塗りのセンチュリーが滑りこんできたとき、水町には一瞬、予感が走ったのだという。窓にはレースのカーテンが引いてあり、なかにだれが乗っているのかは知りようもない。車のなかでは加藤紘一がカーテン越し外に眼をやりながら、あ、いるな、と水町の姿をみとめていた。

 よりにもよって水町の目のまえに、後部座席のドアがぴたりとつけられている。最初に助手席から出てきたのはSPだった。それからしばらくの間をおいて、加藤がゆっくりと姿をあらわした。ドアから出て来しなに、視線をさりげなくあわせてきた。あたりさわりのないまなざしだった。水町は黙って頭を下げた。加藤も黙礼を返すと、そのまま彼のまえをよこぎり、ホテルヘと消えていった。

「なぜ、あのとき加藤さんは、わざわざ僕のまえに姿を見せたんだろう。車を走らせて僕をやりすごすこともできたはずなのに......」

 どう考えていいかわからないとでも言いたげな口調でつぶやくと、水町は私をじっと見つめてきた。「どう思います?」

後日、その問いを水町にかわって加藤本人に投げかけてみると、

「だって、同じ人間だもの.....。よくわかりませんねぇ、一瞬のことですから。あ、いるな、と思っただけで」

 そう言って加藤は、興味などないというような顔でむっつり黙りこんでいる。ちょうど政治倫理審査会への出席を決めたばかりで、加藤とは親密な関係にある政調会長の山崎拓からは、政倫審をひらくまでの経緯についてこんなふうに聞いていた。

「政倫審へは、加藤が自分から出ると言ってきかなかったんだ。政倫審をひらくことについては一貫して反対してきた私に、彼は懇願するような調子で、(政倫審の出席を決める)あしたの役員会では反対しないでくれと訴えてきたんだよ。酒でも飲まなきゃ眠れない心境だろうな。そんなに飲めない男なのに」

 早期の解散総選拳も決まり、疑惑追及を回避することなどたやすくできたはずなのに、加藤のほうから政論審開催を要求したのだという。

「党のためにも自分のためにも、そのほうがいいと思ったからですよ。"逃げきり解散"だと8割くらいのひとが思ってたんじゃないですか。だから最初から出るつもりでいましたよ。解散が早くなったのは、ちょっと計算ちがいでしたけど」

 いかにも野党・新進党からの要求に屈するかたちで政倫審がひらかれることを意地でも許したくなかったというそぶりが、加藤からは立ちのぼっている。水町のまえで車から降りたことも、57歳という年齢にしては、傲岸というよりもどこか青臭さすら漂う意地のようなものが感じられてくる。

噂を一笑に付して

 日比谷高校から東大法学部、外務官僚、二世議員、そしていまや最大与党の幹事長へと順調にのし上がってきた彼には、その経歴がしめすとおりエリート特有の冷たいイメージが一般には拭いきれない。元後援会長の水町重範から告発を受けたのも、デリケートな人間関係の部分に冷やかな風を加藤が送ったからでもあるだろう。事前にいくらでも和解するチャンスはあったばずなのだ。「僕と加藤さんとの関係を修復しようといろんなひとが動いてくれたけど、加藤さんからはなんの音沙汰もなかった」と水町は語っている。

 加藤とは同期当選組で、同門の旧宏池会代議士・粕谷茂は、「加藤君は人づきあいがいい。後輩の面倒見もいい。外務官僚出身だから知性的で、インテリで、どんなひとにも後れをとったことがない。ただ、つきあいがよくて面倒見もいいだけにそのぶん集金に焦りがありはしないかな。政治は究極の道徳だ。加藤君にはそのことをもっと、もっと勉強してほしい」と苦言を呈する。こんな批判が政界に渦巻くのも、疑惑の元となった「共和」と加藤との接点に、加藤と親しい木村知躬という東証二部上場会社「アサガミ」(港湾運送業・ほかに倉庫業も)社長の存在があるとされるからである。もともと証券会社の外務員であった木村知躬は、株を買い集めることによってつぎつぎと企業の経営権を手にいれていった人物である。いわばミニ小佐野賢治とも言えるこの人物が、水町重範の経営するメディカル・クラブに増資話をもちこんでおきながら突然、約束していた5,000万円の出資を拒否したことが、加藤告発の発端となった。

 以後、政界では加藤紘一と木村知躬の関係がクローズ・アップされ、「ことし4月末、橋本首相の元秘書で金庫番と言われる小林豊機と加藤が木村の仲介で会い、橋本首相の恥部を握った」という情報が流されるまでになった。さらには「倉庫業を営んでいる木村は、加藤が力をいれていた北朝鮮へのコメ援助にもからんでいる」という噂まで飛び交った。加藤は一笑に付す。「冗談じゃない。ひとのスキャンダルなんて興味ないですよ。小林豊機というひとの名前は知ってるけれども、会ったことは一度もありませんよ。コメだって、だいいち木村さんはコメの倉庫なんてやってないはずですよ」

あ〜ぁ、と大きなため息を吐きながら、加藤はほとほとうんざりしたような声で言う。

「なんでそんな話をつぎからつぎへと世の中はつくっていくんだろう。まったく、北朝鮮から金塊をなんぼもらっただとか.....」。

政治家の性

 ただひとつ気になっていたことについて、彼はすんなり認めた。一昨年の6月、木村知躬の仲介で橋本龍太郎と会合をもったということである。「橋本総理、加藤幹事長という流れは、あのときから決まっていたんだ」と木村は周囲に自慢げに話している。実際の話の中身はそんなものじゃない、と加藤はまたもうんざりしてしまっている。

「いろんなひととお付き合いするのは、政治家の性じゃないでしょうかね。木村氏が世間からどんな評価をされているかも知ってますけど、紹介してくれたひとがしっかりしたひとだと信用するわけですよ。水町氏は鈴木善幸さんの主治医だったし、木村氏は私がほんとうに信用している大蔵省出身の堅い参議院議員に紹介されて会ったわけですからね。木村さんはそんな変なひとだとは僕は思わない」

 とかくの評判がある政商のごとき人物と、わざわざ手を組む政治家はいないと思いたい。「政治は究極の道徳」という意見もあるが、それでもオフレコと称して未確認情報をマスコミに流し、足を引っぱろうとする政治家がわんさかいることを私はよく知っている。この世界では力のないものほどポストを求める傾向があり、理念や政策能力の高さでポストを射止めたものたちは不純な目で見られて損をする。

「あ〜あ、俺がそんなにポストに執着してると思われてるのかなぁ」

 ふれられたくない事柄ばかりを根掘り葉掘りきかれ、それでも誠実にこたえようとしてきた加藤も、さすがに最後は疲れてしまったのだろう。立ち上がって伸びをしたかと思うと、また青臭さの漂うつぶやきを洩らしている。

コンプレックス

 加藤紘一の青春時代が、エリートにふさわしく順風に煽られた歩みであったかと言うとそうではない。どちらかといえば、挫折と逡巡の連続であったと言うことができるだろう。もっとも、それは彼がエリートとして成熟してゆくための通過儀礼なのだったが。そこで彼はなにかを捨て、なにかを纏った。いまもどこか青臭さが漂うのは、捨ててきたものの大きさを忘れきれず、衣のように纏ったものをきっと深層で嫌悪しているからだ。

 ふるさとの山形県鶴岡市から、代議士の父とともに上京してきたのは昭和29年、中学1年の終わりのことであった。山形弁しか喋れないというコンプレックス、いままで見たこともない真っ白なブラウスを着た女生徒に憧れをいだきながら俯いてばかりいた。標準語の特訓をほどこしたのは、いまは故人となった俳優の岸田森。日比谷高校では外交官の子息、アメリカ帰りの法眼俊作とめぐりあう。反安保闘争前夜の、荒れる学園のなかで堂々と安保改定肯定論をぶつ法眼に、彼は戦慄をおぼえる。法眼はストレートで東大法学部に入学し、大学3年で外交官試験にパスする。いっぽう加藤は、父親への反発から東大理一を受けたが失敗。一浪後、東大法学部へと進む、ずっと先のほうを猛烈な勢いで疾走してゆく法眼の背中を、彼は茫然と眺めるばかりだった。

 60年安保闘争では、2度デモに参加した。6月15日、安保改定自然承認のその日、歴史的瞬間をこの眼に灼きつけておこうと国会議事堂にもぐりこむ。そこで目撃したものは、信じがたい光景だった。

「議長室から本会議場の議長席までのわずかな幅しかない廊下に、対立する自民、社会両派の議員、秘書らがスクラムを組んで対峙している。ところが、誰かが冗談を言うと、両方でどっと笑い声がはじける。外は革命のような嵐だというのに、国会内の様子はまったくちがう。この日、樺美智子さん(東大生)が亡くなってるんですよね。あまりの落差に猛烈なショックを受けたんですね」

 彼は魂が脱けたようになる。豪放磊落だった父親の落選という冷酷な現実が、そこへ追い打ちをかけた。"強い父"の偶像は壊れ、加藤は真剣におのれの道を探しはじめる。

 法眼俊作に肩をたたかれ、外務省へ進むことを決意したのは大学4年のこと。「俺はソ連をやる。おまえは中国をやれ。2人で日本の中ソ外交を仕切ろう」と壮大な夢をもちかけられ、外交官試験に挑む。が、最終試験に落ち、またも挫折。翌年、ようやく合格する。外務省に入省した矢先、加藤を襲ったのは、法眼俊作の自殺という思いがけない知らせだった。死なれてみて、はじめて気がついた。自分にとって乗り越えなければならない最大の対象は、じつは親友の法眼だったのである。

 友人代表で弔辞を読みあげる加藤の胸には、悲しみだけではない、まったく別の感情も去来していたのではないか。それをある種の"解放感"と呼んだら穿ちすぎだろうか。東北からやってきたコンプレックスだらけの若者が、エリートヘと脱皮してゆくためになにかを捨てなければならなかったとしたら、たとえば親友の死をただひたすら悲しむというナイーブにすぎる感情ではなかったか。その1年後、父親がこの世を去る。周囲のものからつぎの選挙に出ろとすすめられても、頑として受け付けなかった。ようやく立候補したのは、昭和47年の総選挙である。父親の死から7年という月日が流れていた。

小沢一郎との邂逅と訣別

 加藤紘一の青年時代、もうひとりの強烈な個性が彼のまえに立ちあらわれている。現新進党党首の小沢一郎だ。父親はともに藤山愛一郎派の代議士という関係で、加藤が小沢とはじめて出会うのは、昭和44年の総選挙まえのことである。立候補を決意し、箔付けのために世界旅行に出ていた日大大学院生の小沢を、加藤は駐在先の香港で出迎えた。九籠島を走るタクシーのなかで、選挙に出ないのかと小沢から問われた加藤は、自分にはそんな資格はまだない、とこたえた。

「自分は立ちますよ。チャンスの女神にうしろ髪はないといいますからね。チャンスと思ったら正面からそれをつかみます」と小沢は言った。自分より3歳年下の相手の顔を、自分とはまったくちがう政治家タイプの男だな、と加藤は冷めた眼で眺めた。

 けれども立候補を決意したとき、派閥選びの相談に親身に乗ってくれたのは一年生議員の小沢だった。加藤は大平派を選んだ。外務省をやめて退官の挨拶に出向くと、小沢はお祝いだと言って数十万円のはいった熨斗袋を手渡してきた。

 昭和47年の総選挙で初当選した加藤は、小沢と親しく付き合った。羽田孜といっしょに、独身の小沢の嫁さがしをしたりした。

 ふたりの蜜月はつづき、小沢はやがて「紘ちゃんを総理にする」と公言するようになる。海部政権も1年が過ぎたころから、幹事長であった小沢は首相の海部俊樹に愛想をつかし、山口敏夫や中西啓介を通じて加藤へ打診をする。が、加藤はきな臭さを感じて、まったく話に乗ろうとしなかった。関係が崩れかけていたところに、東京都知事選挙の候補者間題でふたりの意見はまっぷたつに分かれた。元NHKキャスターの磯村尚徳を担ごうとする小沢に対して、加藤は現職の鈴木俊一を担ごうとした。磯村では勝てないという読みが、加藤にはあった。都内の料理屋で異論を唱える加藤を、小沢は一喝した。

「磯村は勝ちます。やるんです!」

 ふたりの関係が決定的になったのは、加藤、山崎拓、小泉鈍一郎によるYKKの結成であった。加藤は経世会支配の打破を画策、宮沢派、渡辺派、三塚派の三派連合を形成し、最終的に小沢の意図しなかった宮沢喜一を総理の座につけることに成功する。宮沢支持を決めた経世会総会は、まるで通夜のようだったという。

「だから小沢さんにとっては、私がそれをやったのがいけなかったんでしょう。恨まれることになったんだと思いますね。しかし、私は小沢さんに対抗するというよりも、やっぱり経世会支配に納得できない、ついていけないという気持ちのほうが強かった。それが結果的にどういう意味を持ったか知りませんけどね」

 もう遠い過去の話だとでも言いたげに、加藤の声はそっけなくひびく。献金疑惑をめぐって「即刻、役職を辞任すべきだ」と激しい言葉を投げつけてきた小沢に、「よその党の人事に口を出す党首がどこにいますか」と加藤の言葉は冷めきっている。

成田と沖縄

 政治家としての彼の足跡を見ていると、ふと立ちどまらされ、じっと眼をこらしてしまうところがいくつかある。

 聾唖者に条件つきで運転免許受験の資格をあたえるよう通達を直させたのは、まだ当選1回の新人議員のときのこと。大平内閣官房副長官時代には、成国空港問題の解決に向けて反対同盟の幹部たちと水面下で交渉をつづけ、合意書を発表する寸前までいっている。いまから18年前のことだ。

 現実に反対同盟の青年行動隊長であった島寛征とのあいだで、概略つぎのような合意書が取り交わされている。政府サイドは「農民の心情に充分に意をもちいなかったことを反省し、土地収用法の強制適用を控える」。反対同盟サイドは「いたずらに闘争至上主義に陥っていったことを反省し、問題の解決に当たる」。麹町4丁目の鳥料理屋で合意書は交わされ、それぞれの勢力内部への根回しに動き出そうとしていた矢先、読売新聞の一面トップに抜かれて反対派につぶされた。が、このときの努力は、確実に解決への時間を近づけた。加藤は語る。

「成田問題がなぜあれだけ30年ももめたのかというと、スタートの時点で政府が判断を誤ったからです。三里塚というのは痩せた土地で、移住者たちの開拓地だった。政府は先祖伝来の土地ではないから愛着などないだろうと考え、多額の補償金で話がつくと思った。ところが三里塚の農民たちは、猛反発した。血と汗を流して開拓した土地だからこそ、強烈な愛着があったわけですね。あの土地こそ、自分たちの生きてきた証だったんです。運輸省にほ想像力がまったく欠けていた。新国際空港公団の理事に農水省OBをいれるなりすればよかったものを、縄張り意識から排除したんですね。農民の心情をわかる人間が不在のままスタートしたことに問題があったわけです」

 今回の解散総選挙の時期を決めるうえで重要な懸案であった沖縄問題についても、加藤は最大与党の幹事長として8月下旬に沖縄入りし、大田昌秀知事に直接、詫びている。代理署名拒否の姿勢をつらぬき、県民投票で米軍基地の存在に反対の意思を突きつけようとしている大田と沖縄県にたいして、首相官邸は特別立法で強引に押し切ろうとしていた。加藤ら自民党執行部は力による解決に反対し、幹事長代理の野中広務が官邸サイドを説得しつづけてきたのである。

沖縄間題解決への布石

 沖縄へ向かう2ヵ月まえの6月、加藤はひそかに副知事の吉元政矩と東京で会い、3時間半にわたってこれまでの経緯を聞いていた。そこでは大田知事がなぜ頑強に代理署名を拒否するようになったかが切々と語られ、日米安保や地位協定の議論とは無関係の騒音対策などについていくら陳情しても、防衛施設庁は動いてくれなかったと訴えられた。調べてみると、確かに防衛施設庁はあまり努力をしてこなかったことがわかった。

「三里塚の問題と同じょうに、この沖縄問題も政府の責任が重いと思ったんです。たしかに沖縄には700億円の土地賃料が防衛施設庁から支払われている。それにくらべて、沖縄の主要産業であるサトウキビの純収益は、おそらく150億円から200億円にすぎない。だから米軍基地の恩恵を充分に受けてるじゃないかという論議を、政府は前面に押し立ててやっていく可能性がかなりあった。つまり、成田空港問題と同じような泥沼にはまっていく可能性があったわけです」

 それだから特別立法で押し切るようなことはなんとしても避けるべきだ、と加藤は考えていた。防衛施設庁の怠慢もある。「嘉手納空港のP3Cの駐機場を同じ敷地内の別の場所に移してほしい。すぐそばに保育所があって騒音がひどい」などという沖縄の訴えは、日米安保運営上まったく問題なく処理できるはずだ。現状のなかで政府−防衛施設庁がやるべきことは、いくらでもあった。加藤は8月19目に橋本首相と会い、感触を確かめたうえで大田知事のもとへ向かった。自民党執行部は力による解決は望んでいないということを伝え、本土政府への不満や要望を聞いた。そして「政府の努力が足りなかった。与党としてもそれを強く後押しする努力に欠けていた」という旨の謝罪を明確に告げた。沖縄から帰ってきた加藤には、官邸サイドからつぎのような言葉がおくられた。

「政府としては、なかなか率直に言えないところを、党として率直に言っていただいて感謝している」

 本土政府が示した沖縄振興策の影響もあったのだろう。大田知事は県民投票のあと代理署名拒否の姿勢を撤回し、政府は力による解決を回避することができた。総選挙の最大の争点のひとつとなるはずだった沖縄問題は、直前で収束したのである。

東北の風土

 エリートでありながら、マイノリティヘのまなざしを持ちつづげているのはなぜなのかと私は聞いてみた。

「やっぱり東北という土地で育ったということが大きいんでしょうね。私なんか、ほら、エリートコースを進んで、代議士の息子で、外務官僚で、二世議員というキャリアですから、どちらかというと弱い立場のひとの気持ちというのはわからないできていると思います。ただ、東北の人間がつねに、自分たちを治めてる人間が東京にいると思っちゃうわけです。中学一年で東京に出てくるとき、東京に行けば日本を統括してる人間、その子息たちがいるにちがいないと緊張にふるえていた。やっぱり、いまでもどこかにいるにちがいない.....いまはいないか.....(笑)。でもずっとそう思ってきたんですよ」

 10年近くまえに本人から、学生時代に和歌山のみかん農家へ収穫のアルバイトに行った話を聞いたことがある。真冬の寒い季節に、1ヵ月間住み込みで働いた。そのとき、徳島県の阿南市からやって来たという出稼ぎの男から、彼はこう告げられる。

「あんたは東大なんて立派な学校出て、偉くなるんやろな。でもな、わしらのような下積みの人間のことが、ようわかる偉い人間になってくれ」

 どきりとした、と加藤は私に言った。

「理屈ばかりで生きてると、こういうひとたちからばかにされるんだな。現実にどっしりと両足をつけたひとたちから、監視されてるような気がする」三里塚や沖縄問題にも、無意識のうちにこのときの鮮烈な記憶が重なっていたのだろうか。

 昨年の水俣病問題の解決をめぐっても、加藤は政調会長として重要な役割を演じている。政府に謝罪をさせ、和解の席につけさせるために、院内の政調会長室にやって来て「こちらの立場をご理解いただきたい」と懇願する環境庁事務次官の森仁美を頭から怒鳴りつけた。

「だめなものは、だめだ。30年も40年も、いつまでこんなことやってるんです。政治として醜いと思わんか。やると言ったらやるんです!」

 1年生議員として例の聾唖者の運転免許問題を処理したとき、彼をささえたのが厚生省更生課長補佐の森であった。怒鳴りつけたあとつらい気持ちになったが、それから環境庁は方向転換をとげ、一気に和解へとなだれこんでいった。

「しばらくして森さんやほかの環境庁の幹部に会ったら、私が怒鳴ったことについて、あれはあれでよかったんじゃないでしょうか、あそこで怒鳴られて自分達も方向転換ができました、と言われて、ああ、やっぱり政治家と官僚の任務分担はあるんだと.....任務分担があるのはわかっていたけども、親しい人間関係から乳離れしながらやらなきゃならんということに改めて気づいた。規制緩和でも公共事業のシェア変更でも、人間関係があるから、なかなか処理できなくなっていくわけでしよう」

 加藤のつぶやきは独白のようにひびき、しだいに小さくなっていった。

「ポスト橋本」への困惑

 加藤を告発した水町重範は、いまでも加藤と出会った日のことを鮮やかに思い出す。15年ほどまえ、鈴木善幸首相の訪米に主治医として随行したときのことだ。ワシントンで随行議員のひとりだった加藤から、みやげ物を買いに行くから付き合わないかと誘われ、ついて行った先がジョージタウン大の生協だった。ほかの議員たちは高級ブティックなどにでかけたというのに、加藤は大学生協で家族にトレーナーなどを買っている。

「僕にはまだ政治家という背広は似合わないから」

 そんな科白を真顔で吐く加藤に水町は新鮮なショックをおぼえ、新しいタイプの政治家の出現を胸に刻みつけた。

「あれから10年ほどたって、いまから5,6年まえに、パリのバンドーム広場の高級ブティックで、奥さんを連れた加藤さんとばったり出くわした。それは春だった。その年の夏、こんどは、ニューヨークでまた偶然会った。ティファニーでしたよ......。10年の歳月がジョージタウン大学の生協からティファニーへと、おたがいを変節させたのかもしれないね。それぞれの人生が、バブルだったのかもしれないね」

 ふとこぼれ落ちてきた言葉には、水町と加藤のふたりだけにしか響きあわぬ禁断の匂いがした。

 禁断の果実を食べなければ首相にはなれないという法則があるのかどうか、いずれにせよ加藤紘一は、いまやポスト橋本にもっとも近い存在のひとりとなった。当人は、しかし、困惑気味に語るのだ。

「こんなことを言うと仲間に怒られるんだけど、僕は最初に選挙に出たときから、総理など目指していないんですよ。僕が目指したのは石田博英のように政権をつくり、デザインしていく官房長官。もう宮沢政権で、その目的は達しちゃってるんですね」

 それなら総理の座は目指さないのかともう一度念を押すと、仕方がないなとでも言いたげな笑みを浮かべて、ぽつりとつぶやいた。
「目指さなきゃなんなくなっちゃった.....」

 

 

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