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「いま政治は何をすべきか」



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同志雲霓
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城山  官僚組織というものが人間の側にいっていればいいのだけど。

加藤 そうなんです。人間の側になぜ立ち得なくなってしまうのか。そして、永田町で論議するときに、代議士さんだって結構タクシーに乗っている人もいれば、電車を見ている人もいるわけですけれども、その話というものがどうして現実の政治の世界で非常に強く出てこれないのかというこが、長い間疑問だったのです。どうして永田町の政治家と官僚の間に具体的な生活の問題が入っていかないかというと、根っこに、政治家も官僚も経済の効率性と合理性というのをどうしようもない強い公理として考えていて、具体的に問題が一般市井の中で起きるんだということに気がつかなかったか、たとえ気がついても自信をもって言わなかったからだと思うのです。

つまり、明治維新以来、我々の社会というのは、夢を持って過ごしてきた社会なんですが、その夢というのは、西欧列強のように強くありたい。そして、欧米諸国のように豊かな生活をしたいということで、富国強兵、殖産興業をかき立ててきました。しかし、それを戦前70年ほどやってある段階まできて、太平洋戦争で過ちを犯して道草を食い、そして、戦後また40年ほど、必死に働いてきて、実はバブルの直前ぐらいに、ある種の到達感が出たのではないかという気がします。自動車もテレビも冷蔵庫もみんな持てるようになりましたし、住を除けばほとんど欧米先進国にキャッチアップしました。その後、我々はどういう社会を、どういう夢を持って頑張っていったらいいのかということを「踊り場」で考えなければならなかったのですが、何となくその意識を持てずに、とりあえず手近にあった株と土地でみんなで遊んだのがバブルだったんではないでしょうか。バブルが崩壊して2年間、後処理をやって今、やっぱり単にバブルの問題だけではない何かどでかい問題に今、逢着したんじゃないかという気がするのですね。

それに我々がビジョンを出していかなければならないのですが、ときどき明治維新の人たちというのは、どういった人物たちがどういった発想で富国強兵だとか、我が国を欧米のようにしていきたいというデザインを書いたのか、その人物像というものを、彼らがものを考えるきっかけとなった事象、何を見てそう感じたのか、調べて見たいなと思っているんです。

(城山三郎氏との対談で、93年11月) top of page

 

私は去年の暮れの12月30日付の朝日新聞の社説に大変頭に来ました。この日本社会午後3時、もう日も落ちかかった国だという内容で、暗い表現でした。冗談じゃありません、反論を書かせろと、いうことになり、1月19日に掲載されました。私の表現は「ニッポン、まだ午前十時三十分」というものです。

確かに一時の夢を持って頑張っていたこの国が、何かをなし遂げたような気になって、何となく午後たそがれどきになってきた、そして、アジア諸国が後ろから若々しく追っかけてくるがゆえに、みずからの成熟、老いをますます感じさせられるということはわかります。私もベトナムに去年行きましたときに、一緒に行った家内も同じような感想を持ったんですけれども、社会が若いんですね。そして、貧しいけれども、タイみたいに頑張っていこう、日本みたいになれるぞといって必死になって働いている。必死に物を買いたい、お金が欲しい、伸び上がっていきたいと思っている。ああ、あれは私たちの国が昔持っていたあの青春の雰囲気だなというふうに思って、じゃあ、我々にはもうあれはなくなったんだろうかという気になるわけですけれども、私はそうではないし、そこから疎外される日本でもないし、アジアの発展を支えているエージェントはだれか、その主体はだれかと論ずると、日本なのではないのかということだと思います。

(95年1月)top of page

 

政治家には二つの側面がありまして、一つは「ビップ・プレゼンタティブス」ということなんです。代表、代議士、かわって議論する。だから、みんなの意見のとおりに東京でしゃべる。それから、「リーダー」という言葉があって、みんなが嫌だと思うことでも、全体を考えればこれしかないんだからと言って、説得する、リードする、引っ張っていくという力が政治家にはどうしても必要になる。政治家はその両方を兼ね備えないといけない。そのバランス、ころ合いをうまくとるのが政治の難しいところなんですが、今、やっぱりリーダーシップを求めている時代なのではないかなと。リーダーシップに基づいて話す見識が必要な時代になってきたのかなと思っております。

といいますのは、戦後、日本には、みんなが認めるある種のリーダーというのがあったわけです。それが次々に壊されている過程だから、だからこそ、そのリーダーの再構築、リーダーがまた出てきてほしいという気持ちが強いのだと思います。何か、抽象的なことを言いましたが、戦後のリーダーというのは、吉田さんに象徴される保守政治だったと思います。これで4、50年、みんなおかしいなと思ったり、行儀が悪いなあと思うことがあっても、大まかなところでついてきて、問題がなかった。平和で豊かだった。しかし、それが今から3年ぐらい前につぶされたわけです。

(96年7月)top of page

 

政治家というのは、よくアンケートされますと、洞察力だとか、先見性だとかが大事だと答えます。それは、言うなれば教科書みたいなもので、それよりもっとベーシックなところの話として、政治家というのは文学者にも似て、人の生活に興味がないとだめなのではないかと思います。

例えば、自分たちが年金政策をどう変更することによって、嫁としゅうとめの関係はどう変化するのかとか、そういう実際の庶民の家庭生活に翻訳できるような能力を持ちながら政策論議をしないと、実に無味乾燥なものになってしまうと思うのです。

そこを忘れて、翻訳できなくなってしまったときには、単なる権力欲になってしまうし、やっていてもおもしろくないのではないかという気がしますね。

(城山三郎氏との対談で、93年11月top of page

 

私、今からちょうど2年前の1月20日ごろ、朝日新聞の論壇に、自民党の政調会長として変だったのですけれども、カーッと頭にきて投稿いたしました。

それは、その前の1カ月ぐらい前の朝日新聞に、この国はもうだめだ、黄昏ムードだ、午後3時のジャパンだと書いてあったものですから、ちょっと待ってください、この国はもう一回中天に日が昇るような国にできますよということを書いて、反論したのです。私は今、ちょうど2年前の、朝日の黄昏論というのは、この黄昏論のはしりでありまして、ちょうど今黄昏はそのピークだと思うのです。

こういった失望感とか、先の見通しの暗さというものの深さが深ければ深いほど、私は、先にビジョンをつくり出したときに、明るい、力強いものをつくっていくだろうと思います。底の落ち込みが激しければ激しいほど、それから上がっていったときの山は高くなるだろう、というぐらいに考えていきたいと思います。

なぜなれば、それを克服をするだけの資本が日本にありますし、それから技術力もありますし、何よりも人材があります。また、このまま落ち込んで、しぼんではいけないという人々のイライラというものがあります。このイライラというのは、実は大切で、このイライラがなくて、どうにでもなれという投げやりになったらおしまいです。

みんなが一生懸命イライラしているところに、この国が再び上がっていく活力の根源があると、私は信じておりますし、我々がそれをリードしていかなければいけないというふうに思っています。

(97年1月) top of page

 

どうも今の日本の社会は、ちょっと神経質になっているなと思います。その一番いい例が、今年の1月1日の日経新聞一面です。

たしか「日本が消える」という特集だったと思います。そしてその小見出しに「東京には死相が漂う」とあります。東京には死人の相が見えているというのです。経済、財界の気持ちを代表しているこの新聞の見出しに、ああ、こんなことを書かせるような政治をやっちゃったなあという、反省みたいなものが私たちにはあります。

ただ、私は、前から言っておりますように、今の日本というのは、ビジョンをなくしてしまった、それはおそらく今から12、3年前だろうということを、よくこの雲霓の会で申し上げているのですが、ちょうど宮崎さんが今日おっしゃったビル・エモットという人が、「日本はまた沈むよ」って言ったのが、1989年、平成元年ごろの出版ではないかと思うのです。  あれをよく読んでみますと、おもしろいことが書いてありまして、その前年の1988年、昭和63年に、アメリカが全く今の日本と同じように、アメリカはもうだめになってしまうのではないかと、ものすごい悲観論になっていました。

そしてそのときに、ポール・ケネディーの『大国の興亡』というような本が圧倒的に売れました。大変専門的な歴史書で、みんなこんな分厚い本を読んでいるとは思いませんけれども、とにかく、この国がどうなるかということを先々案ずると、このポール・ケネディの本を買って、そばに置いておくだけで何か満足して、アメリカ人は何百万冊のベストセラーになったと書いてありますけれども、実は、私は、今の日本は1988年、あの10年前のアメリカを経験しているのではないかなというふうに思っています。

アメリカはその後ぐいっと伸びました。当時、一方日本は何をやっていたかというと、アメリカに学ぶものはもうないみたいな、すべてジャパン・アズ・ナンバーワン、エズラ・ボーゲルの世界で、ニコニコしていたわけです。

一方アメリカのほうは、これはいけないということで、必死になってリストラをやったり、いろんな経済政策を打ったりして、今日、株が歴史上最高に来たのだと思います。

(97年1月) top of page

 

日本は130年前の明治維新で国際社会に復帰してから、欧米に追い付き追い越すことを目標に国造りに励んできました。経済指標を見る限りこの目標は、1985〜6年にほぼ達成されました。目標が達成されれば「次の目標」を考えなければなりません。

だが、わが国は「次の目標」をつくりだせないまま、それまでの路線をそのまま走り続けました。その結果、経済バブルに踊り、一時は「もう欧米には学ぶものがない。これからは欧米が日本に学ぶときだ」と言う声も聞かれました。

しかし、バブルはしょせんバブルでした。バブルが弾け、隠れていた問題が一斉に噴出したのが90年代前半でした。経済の混乱もありましたが、何より深刻だったのは、国も国民も「明日」を思い描けなかったことです。

漂流状況の中で、21世紀の日本の姿を指示しようというのが自由民主党の6大改革なのです。

(米国ナショナル・プレス・クラブでの講演、98年5月)top of page

  ご存じの通り、日本経済は1980年代の終りまでは「先進国の奇跡」と言われるほど順調に発展を遂げました。ところが1990年代に入ると急に変調を始めます。株式、土地は値下がりし、個人消費の伸びも鈍化したのです。そして失業率がじりじりと上昇しました。

日本政府は減税、公共投資など約60兆円の財政出動で必死に支えようとしましたが、上昇に向かうどころか、ますます低迷の度合いを深めていったのです。

どうやら日本経済を取り巻く状況は1980年代後半に大きな構造的変化を遂げ、従来の手法では経済運営ができない事態が密かに進行していたのです。

一つは国家目標の喪失に関わる問題でした。

日本はちょうど130年前の明治維新から、欧米に追い付き追い越すことを一貫した目標にしてきました。そのため政府は強力な権限を握り、官僚の指揮の下に国民を目標に向かって駆り立ててきたのです。経済指標に関する限り、この目標は1985〜6年の間にほぼ達成しました。この時点で日本は次なる目標を掲げて一層の改革に向かう必要があったのでしょう。しかし、成功が慢心を生み、改革への意欲を失わせるのは国も例外ではありません。指導者も国民も、それまでの成功の延長に一層の発展と繁栄があると錯覚しました。情勢の中で日本的発展方式の負の部分が蓄積されていたことを見落としていたのです。

もう一つは国際化に関わる問題です。

日本の市場は、コメなど一部の例外はありますが、物に関する限り1980年代末までに「世界で最も開かれた市場」の一つになりました。

資本も海外を目指しました。アメリカは1980年代前半に発展途上国への投資を拡大しましたが、日本も1980年代後半、アジア、アメリカへの投資を拡大しました。

進出したのは金融機関だけではありませんでした。電気機器メーカー、土木建築業、それに中小企業までが次々とアジアを目指したのです。そしてアジア諸国は日本にとって輸出入市場以上の意味を持つようになっていったのです。

こうした構造変化に対応する確かなビジョンを持たないまま、日本経済のエネルギーが向かったのがバブルだったのです。しかし、ひと度、土地と株式が値崩れを起こし始めると、バブルのサイクルは崩壊に向かわざるをえません。日本の金融機関が今日なお悪戦苦闘しているのも、このときの不良債権が足を引っ張っているからです。そして景気低迷の中で公定歩合は下がり、預金金利も下がっていったのです。

(米国ESI[経済戦略研究所]会議での講演、98年5月)top of page

私はご承知のように、農村地帯出身の議員ですから、農家の人から時々聞く言葉があるんです。同じ土地に同じ作物を何十年も植え続けて、化学肥料をやり続けると、土地が固くなって白くなって、そして作物を育てなくなる。

そのときには、土を砕いて、落ち葉を入れ、堆肥を入れ、空気を混ぜて柔らかな新しい土にする。すると、種子は青々とした野菜を生育させ、球根は赤、黄色の見事なチューリップを花咲かせるんだと。それが我々のやることですと。ちょうど今私たちの社会は、いい種子、いい球根を持っているけれども、それが伸び伸びと生育しない、したがってそこを土壌改良しなければならないときなのではないかと思います。

その土壌改良をしっかりやればこの国は大丈夫と、私は信ずるというより、それが事実だと思っています。これぐらいの潜在力を持っている国はないのでありますから。

(99年1月)top of page

 

加藤 われわれにとって百年来のフロンティアというのは欧米の豊かさで、それをキャッチアップすることが目標だったわけです。

田原 いちおうキャッチアップしたわけですね。

加藤 そう間違って思い込んでいるんです。

田原 まだキャッチアップしていない?

加藤 していないと思います。フローではキャッチアップしたけれども、ストック概念ではキャッチアップしていません。贅沢な赤ワインは飲めるけれども、家に帰えると80平米に親子4人で住んで、デスクトップのパソコンを置く場所がない、そういう社会になっています。

田原 まだ豊かな社会ではないと。

加藤 ですから、まずは本当の豊かさを実現することです。そして、仮にキャッチアップが実現した場合、その後どうやって自分自身のフロンティアをつくるか、それが最大の任務です。そのフロンティアをデザインするのは、いままでのように官主導ではなく、政治と国家は広い意味でガイドはするけれども、活動そのものは個人にまかせて、その個性ある働きの総和としてエネルギーが出てくるようなシステムに変換する。それが大事だと思います。

何が日本にとってのフロンティアなのか。基礎科学研究を活発にさせて、アジアの人たちとともにつくりあげていくことかなと思いますね。資金や研究環境はわれわれが用意し、知恵を集め、どの文化にとっても大切なものを維持していくという共通理念を持ちたい。

最近、日本の文化と伝統とは何かと考えていまして、儒教なのか仏教なのか、それとも神道なのかよくわからないけれども、どうも自然とともに生きていくということじゃないかと思うようになってきました。自然を大切にするという倫理をもった科学技術を育て、具体的にはアジアのエネルギー問題をすべて解決できるようなビッグ・サイエンスをやりたいと思っています。

(「総理の座に最も近い男の心中」田原総一郎との対談で、『中央公論』99年5月)top of page

 



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